Film : スパイダーマン ホームカミング
ここ最近、ミニシアターでジャック・ドゥミ『ローラ』、アニエス・ヴァルダ『5時から7時までのクレオ』と良き「映画」を観ていたので、『スパイダーマン ホームカミング』ちょっと落差が激しかった。
① 撮影
夜間の撮影、というより照明が酷い。
光源がない=陰影がないため、ノッペリとした絵作り(眠くなる)でどうしたものかと。しかもアクションの半分以上は夜間にあるものだから手に負えない。
② 演出
これはハナからファミリー向けに企画されているからだろうか。誰も死なないし血も出ない。別にそこ自体に文句があるわけではないけどさぁ、そうなってくるとどれだけ派手にアクションが展開されても「生死」に関わらないのだから緊張感が伝わってこなくないか?
25年以上前の『ターミネーター2』だって(最近見直した)ありゃファミリー向けに作られていただろうけど、「生死」には関わっていたぜ、と思う。
しかも、アクションシーンがほんとに断片的で驚く。特に中盤の、敵の一味に追跡装置を付ける→敵のアジトを発見→悪事の場面に出くわす→戦闘開始、の流れで何故か肝心のアクションシーンがほんの数十秒で終わってしまうのだ。
いったい何を「見せたい」のかが本気で分からない。フツーの倉庫に閉じ込められるシーンが見せたかった…の?
あの、映画ってのは、「見せたい」シーンかサスペンスを構築したいという意思がないと絶対面白くならないんだよ。
上記の一連の流れ、全部「説明」のためだけのシーンです。(まぁそんなこと言ったらこの映画のほとんど全てが説明描写になるけど。笑)
その他にも、スパイダーマンが敵の翼男に初めて出くわして上空に抱えあげられるシーンでも、なぜか湖に落とされて終わりなんだよな。笑
結局、「生死」に関わらない(=ファミリー向け)が完全に枷になっているし、製作者側にもそれを補うほどのアイデアがないのです。
脚本通りのまぁ驚きがない映画。
「娯楽映画」のレベル、どんどん下がってないですか。
2017年上半期ベスト映画
次点から(順不同)
・ローガン
照明が良かった、かなり気を使っていたという点で評価したい。ダフネ・キーンが口論した後に家を出て暗がりを歩き、ふと立ち止まって家を見る瞬間に彼女を照らす灯り。
映画なんて「嘘」なんだから、スクリーンの前に仁王立ちするのも全然オッケー。ラストの構図/逆構図のショットも良いやん。
⑥雨の日は会えない、晴れた日は君を想う
カット割りだとかシーン繋ぎだとか音楽/回想の使い方だとか、かなり大胆。
しかし中心には「物を壊す」というシンプルなアクションがあって、ギレンホールが走り出すまでの映画でもある。
⑤午後8時の訪問者
例えば、夜中に自然と目が覚めて窓を開け煙草を燻らす、あの何気ない瞬間こそが映画だな~と思った。
④昼顔
監督・西谷弘の確かな演出手腕を十二分に楽しんだ。序盤の上戸彩と斎藤工の視線が合う/合わない、会える/会えないといったシンプルなサスペンスが映画を駆動させるところなんか素晴らしいよね。
扉を開ける、風が吹く、床が軋み叩かれる、携帯が鳴る、それだけで映画を「映画」たらしめる。
この映画に関しては、何気ない日常のシーンをそのまま撮るのが果たして正解なのかという問題はあるだろうけど、個人的には好きだ。なぜならケイシー・アフレックが大好きだから。
①マリアンヌ
上半期間違いなくベストだったと確信する。
「見る」、「鏡」といった行為が映画に常にサスペンスをもたらすし、荒唐無稽な話運び含め魅力がたくさん詰まった映画。宝石商を追う動線とカメラワークなんかもうね堪らんよね。
ワーストはなんだろうね。別に「メッセージ」でも「バーニング・オーシャン」でも「沈黙」でも何でもいいかな。
Film : クーリンチェ少年殺人事件
Q1 一言でいうと?
A 規格外。光と影の映画。
Q2 4時間は長かった?
A これが意外と長く感じなかった。それはこの映画が「物語」の映画ではないからだろう。例えばトマス・ピンチョン的な、色々進行しているんだけど詰まるところよくわからないといった感覚に近い。
大きな「物語」ではなく、魅力的な(断片的な)シーンの連続だからこそ見るのが苦痛にはならないのだ。映画とはそうあるべきなんだと思う。(何か壮大な物語を語ろうとする現代の思考とは真逆だが)
Q3 一番好きなシーンは?
A まさしく光と闇を象徴するアジトの襲撃シーンか。最初の体育館でのバスケットボールシーンのショットもすごい。暗闇からボールが返って来るシーン。電球が割れる/銃が暴発されるショット。
Q4 似ている作品は?
映画としての出来/格を抜きにすれば、
『インヒアレント・ヴァイス』『3つ数えろ』『ロング・グッドバイ』『パッチギ』
雑記・キーワード
・道具(闇を照らす懐中電灯、蝋燭、割れる電球、記憶としてのラジオ、バスケットボール)
Film:ローガン
ーーーーー ネタバレありっす ーーーーー
例えばフークアの『ザ・シューター』だったり、コレッド・セラの『ラン・オールナイト』だったり、「無敵キャラの逃走劇」ってのはグッと活劇に寄せる、一種の完成されたフォーマットである。本作も御多分に漏れずそういう話なのだが、実際、かなり良くできていると思う。面白い。活劇として。
基本的に、本作はローガンの人間ドラマであり、「リアリティ」に重きを置いた話であってこれは活劇からは遠ざかりそうなのだが、どうしてもそうしなければならない状況を作り出すことによってうまくそこを回避している。例えば、田舎に住む家族の家に厄介にある場面。あれは、いきなり彼らの車が脱線し、逃げた動物(馬!)の確保を手伝う→家に泊めてもらう、という流れがパトリック・スチュワートの全く危機感のない意思によって決まってしまう。そしてもちろん、ほとんどの場面は敵から逃げるために、心理とは関係のない仕方のない状況から行動が決まる。
また、少女とヒュー・ジャックマンの視線の交錯も触れておくべきだろう。二人の最初の出会いは、視線の交錯であり、崖の上の家でも二人は視線を合わせる。車の中で少女の膝にもたれて寝てしまうシーン。二人は言葉ではほとんど通じ合っていないが、視線や行動が二人の絆を築いているように演出されている。終盤、彼はボロボロの体にムチを打って助けに行くわけだが、その理由はたぶん、脚本や台詞を読んでるだけじゃわからないだろう。
照明もなかなか素晴らしい。特に夜のシーンのあの黒さ。ダフネ・キーンがヒュー・ジャックマンと口論し家を出て、暗がりを歩く。スッと立ち止まり、家に視線をやるところで家の漏れた灯りが彼女の顔をキレイに照らしている。
野暮なことを言えば、ラストでダフネ・キーンの大切にしていたボールやウォークマン(音楽)など、何か道具を使って映画的な演出がされたら尚良かったような気はするが、欲は言うまい。
Film : 『メッセージ』
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最近、この手の映画が多い。
「この手」とはなんなのかというと、「わたし」の物語である。
「ムーンライト」はゲイの少年が青年になるまでの物語だったし、去年の『サウルの息子』だってまったくそういう映画だったし、『ラ・ラ・ランド』だってライアン・ゴズリングとエマ・ストーン以外を覚えている人なんていないだろう。
で、別に「わたし」の物語であること自体には何の問題もないんだけど(そもそも物語には主人公が必要だからだ)、ただ、撮り方、演出が気になるのである。
主人公を接写して、被写体深度は浅く、主人公が動けばステディカムで追いかける。画面を見つめればその顔を大写しにする。重低音を効かせてトラックアップ。
あまりにも貧しすぎんか。それが映画なのか。
俺は映画ではないと思う。
Film : 『マンチェスター・バイ・ザ・シー』
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圧倒的な芝居の映画だ。
例えばルーカス・ヘッジズが墓地に行く途中で木の枝を拾い、柵に当てながら歩く。このシーン一つをとっても、わざわざ「枝を拾わせる」という演出がされていることで映画に「驚き」と「彼の子供らしさ」を印象付けている。
こういう何気ないアクションとアイデアの積み重ねが映画なのである。
まぁそんなことは置いといても、とにかくケイシー・アフレックの芝居が素晴らしい。
この人はデヴィッド・ロウリーの『セインツ』でもそうだったが、非常に映画映えするのだ。声も動きも佇まいも。そして全く心理的でない。
本作ではルーカス・ヘッジズをひたすら「待つ」ケイシー・アフレック。この「待つ」時間をしっかり撮っているのは偉いんじゃないでしょうか。
何気ない演出が絶えずあって役者が生き生きとしている。間違いなくハッピーな映画だと思う。
※ 重いストーリーとは裏腹にユーモアに溢れている。葬式のシーンをスローモーションで厳かなBGMをかけるのでどうしたものかと思ったが、しっかりギャグのような演出で締めていたので「この監督は信用できる…!」と思ってしまった。リズム音痴のドラマーも良い。
※ あと、「気まずさ」の映画でもある。ルーカル・ヘッジズの彼女の母親とケイシーが世間話をするシーン。ルーカスが母親の家を訪ねる食事シーン。しかし、一番気まずくなりそうなルーカスとケイシーの間に「気まずさ」は最初からない。車内においても。